いつまでたってもアイスダンスにはまったく疎い私(汗)ですが、去年11月、GPSエリック杯を現地で見て、遅ればせながら惚れ込んでしまったのが、エレニキまたはイリカツこと、エレーナ・イリニフ&ニキータ・カツァラポフでした。
その後、ソチ五輪でみごと銅メダル! 来季からいよいよ世界チャンピオンを目指して!――とだれもが思っていた矢先のカップル解消。しかもニキータがほかの選手と組みたがっていたことを、エレーナは先日のワールドの直前に知らされたという…。
そんなやるせない事件から1か月たった5月7日、ロシアのサイト『
sport-express.ru』にエレーナのインタビューが掲載されました。このインタビューを、北米のフィギュアフォーラム『Figure Skating Universe(FSU)』で、TAHbKAさんという方が英訳してくださったので、訳してみたいと思います。長いので、今回は前半のみ。それでもかなり長いですが、エレーナの人柄がわかるステキなインタビューだと思います。
(ロシア語がわからない上にアイスダンスの知識も乏しいゆえ、もしも間違いなどありましたら教えていただけるとありがたいです…<(_ _)>)
FSUの記事はこちら→
Vaytskhovskaya's interview with Ilinyh `Katsalapov already left me once, 7 years ago' for sport-express.ru
エレーナ・イリニフ インタビュー
「カツァラポフは以前にも私のもとを去ったことがあったの。7年前に」【前編】
4月はじめ、彼女はパートナーを失ってしまった。世界ジュニアチャンピオンとなり、五輪で金メダルと銅メダルを獲得した後、彼女とずっとカップルを組んできたニキータ・カツァラポフが、違うパートナーと組む選択をしたのだ。彼女にとってこれはショックだった。けれども、それからひと月たって、イリニフはこう言った。
「私は長いこと、ニキータのパートナーの座を手に入れようとがんばってきた女の子だったわ。それはもう終わったの。もう人生の次の段階に進んでいかなくては。ぐずぐずと不必要なことをやっている段階ではないのよ」
彼女が10日間の休暇に出かける直前に、私はモスクワで彼女と会い、話を聞いた。
Q:あなたがアメリカ(のシュピルバンドとズエワのところ)で練習し始めた頃のことから聞きたいの。そもそもなぜアメリカに行くことになったの?
イリニフ:忘れたわ。知り合いに紹介されて、とかじゃなかったかしら。当時、私はパートナーを失っていた。ニキータが違う女の子と組むことになったから。つまり、今年のワールド後の出来事は、初めてのことではないの。今から7年前に同じことが起こっていたのよ。
Q:忘れた、と言ったわね?
イリニフ:なぜアメリカに行くことになったか覚えていないのよ。ニキータと別れたことはよく覚えているわ。私はたった13歳だったけど、ものすごくショックだった。
Q:ニキータとはどのくらいの期間カップルを組んでいたの?
イリニフ:最初は私も彼もシングル選手として、Natalia Dubinskayaに教わっていたの。ところが、彼と私の母親たちが、私たちはアイスダンスに転向するべきだと考えたの。せめてトライしてみるべきだと。ニキータはジャンプがあまり得意ではなかったしね。ちょうどロバチェワとアベルブフが学校をオープンさせた頃よ。
ニキータはいつも目立っていたわ。みんなの注目の的だった。すごく上手だった。だから私には、彼と組むべきかどうか迷う余地は全然なかったわ。それがすべての始まりよ。私はジャンプの練習をやめて、スケーティングやパートナーと演技することを学び始めた…すごく楽しかったな。
Q:主にロバチェワとアベルブフのどちらに習っていたの?
イリニフ:私たちのプログラム第1作目の振付けをしたのはアベルブフよ。彼との振付はとてもおもしろかったからよく覚えているわ。でも、残念ながらアベルブフは毎日リンクに立つことはできなかったの、ちょうど彼が新しいプロジェクトを始めた頃だったから。でも、彼が氷に立ったときは、もうすごかったわ。私たちは毎回、新しいことを山のように学んでいった。そんなとき、ニキータは私と別れることを決めたわけ。
Q:あなたに相談もせず?
イリニフ:私たちはいつも、些細なくだらないことでケンカしていたの。2人とも子供だった。ニキータは、私がパートナーとして物足りない、若すぎると考えていた。私のせいで自分の時間がむだになってるってね。ほんと、くだらないケンカだったわ。
Q:アメリカには誰と一緒に行ったの?
イリニフ:祖母とよ。母は私たちの生活を支えるため仕事をしなくてはならなかったから、ロシアを離れることはできなかったの。祖母と私はアパートを借りて、祖母は運転免許を取ったわ。イゴール(・シュピルバンド)とマリナ(・ズエワ)が教えている選手の中にロシア人の男の子がいて、その子と私でトライアウトをしたけど、うまくいかなかった。それで、私はまた1人で滑っていたの。
その頃、イゴールとマリナの元にはたくさんのシニア選手たちがいたわ。ベルビン&アゴストにバーチュー&モイア、デービス&ホワイト、チョックと彼女の元のパートナー、そしてシブタニ兄妹…。私は一番年下の選手の1人だったけど、イゴールとマリナは毎日、私のために時間をとって教えてくれた。2人はユニークなスケジュールを組んで、いろんな課題を与えてくれたわ。ポージング、振付、柔軟性、氷上でどちらかのコーチと練習し、その後もうひとりのコーチと交代、それからスピン・コーチやリフト・コーチと練習…。
Q:レッスン代はどこから出ていたの?
イリニフ:私の家族からよ。苦労はしたけど、それだけの価値はあったわ。すばらしい知識を吸収することができたと思う。
Q:アメリカにはものがあふれているわね。そんな中で買いたいものを買えるお金がないことは苦にならなかった?
イリニフ:子供の頃からつつましい生活をするのに慣れていたもの。私はカザフスタンで生まれて、両親は私が2歳のとき離婚したの。母はとても強い気性の人で、父の裏切りを許すことができなかったの。彼女は子供をつれて家を出た。だから、豊かな生活をしたことは一度もなかったわ。今はときどき、とても裕福な人たちと会う機会があるけど、そういう人たちって、お金がない生活がどんなものか理解することができないみたいね。私は自分の人生に何かが足りないと思ったことは一度もなかった。スケートやダンスやバレエのクラスが大好きだったし、イゴールとマリナと一緒にいることが楽しくてしょうがなかった。それに比べたら、ばかみたいな服を買えることが何だっていうの?
私の母はよく人に、この子ったら何かをおねだりしたことが一度もないのよ、って言うの。2人でショッピングに出かけても、私は何かを買ってほしいと言ったことはないわ。でも、母は私の心が読めるみたいで、私が何かのおもちゃを心からほしいと思ったときには、いつのまにかそのおもちゃは私の手の中にあったわ。
アメリカで暮らしているときには、遊びに行ったりするような時間はまったくなかった。すてきな家に住んで、車もあった。ほかに何がいるのかしら?
Q:おばあ様が車の運転を始めたときは怖かった?
イリニフ:祖母は車の運転なんて絶対いやだと言い張っていたわ。でもある日、とても年老いたおばあさんを見かけたの。たぶん90歳台ぐらいで、体がふるえ、しわだらけだった。そんなおばあさんが、松葉づえにつかまりながらレクサスまで歩いていくと、それに乗り込んで走り去っていったのよ。私は言った。「おばあちゃん、ほら! おばあちゃんは若いし、美人だし、なんだってできるのに、車の運転が怖いなんて言うわけ?」そしたら祖母は運転を始めたわ。
ソチ五輪の少し前、私は祖母をアメリカに呼んだの。とても来たがっていたとわかっていたから。1週間一緒にすごしたんだけど、これが天の恵みのような時間だったの。祖母とは今まで、まともな話をしたことは一度もなかった。とりたてて祖母と話すことなんてないと思っていたから。アメリカ滞在の最後の日、私は祖母をロシア料理屋につれていったの。2人でただおしゃべりして2時間すごしたわ。たくさんのことを教えてもらった。私自身のこともね。その会話のあとで、思ったの。私は母と祖母とはずっとすごく仲良しだったのに、ほんとになんでもない話しかしてこなかったんだなあって。
Q:英語はすぐに身についた?
イリニフ:ええ、英語はモスクワにいた6歳のときから勉強していたから。でも、それはアメリカ英語ではなかった。アメリカでは「元気?」を"How are you?"ではなく"What's up?"って言うんだと知ったときには、最初は混乱したわ。人の話すことは理解できても、どう答えればいいのかわからなかった。でも、みんな親切に助けてくれた。間違いを直してくれて、正しい言葉を教えてくれたの。だから、すぐにコミュニケーションがとれるようになったわ。
(How are you?とWhat's up?が逆になっていましたね。マユさんご指摘ありがとうございます。訂正させていただきました!)
Q:カツァラポフがもう一度カップルを組もうと言ってきたときには、どう思ったの?
イリニフ:とってもうれしかったわ。そのしばらく前から、最高のコーチに教わることができているのはすばらしいけれど、みんなパートナーがいる中で自分だけダンスの練習や試合ができないことを居心地悪く感じていたのよ。シュピルバンドに、ロシアに帰ることになったと言ったら、彼は理解して支持してくれたわ。ニキータと私はお似合いのカップルだと言ってくれたのは、彼が初めてだった。まだ私たちが別れてもいないときだったのに。彼は即座に、「行きなさい。それが君の運命だよ」って言ったの。
ところが、モスクワに来てみると、ニキータはまだ何も決めていなかったの。トライアウトのようなものがおこなわれていた。たくさんの女の子をニキータと組ませてね。彼は私たち女の子の中から相手を変えて滑っていた。
そしてやっと、私たちはカップルを組めることになったの。ニキータと私でプログラムの振付をして、組んで最初の1年はとてもうまくいったわ。ロシアナショナルで4位になった。3位のカップルより私たちを世界ジュニアに派遣すべきだという声もあったわ。結局、コーチたちの判断でその年は派遣されなかったけど、翌年の世界ジュニアで優勝した。
その頃はたくさんの変化が起きていたわ。ジュニアレベルで競技している私たちを見て、バンクバー五輪にロシアの3枠目として出場させるべきだと言う人もいた。実際、ジャッジにはいい評価をもらっていたわ。すべてのエレメンツでレベル4だった。それでも、ずいぶん成長したとはいえ、私たちはまだ子供だった。いうまでもなくジュニアとシニアではプログラムも全然違うしね。だから、実際にシニアに上がって、期待どおりの成績を上げられなかったとき、私は悩み始めた。何が悪いのって。
そのとき、私はわかってきたの。シュピルパンドとズエワでさえ才能がすべてだったわけじゃない、長い年月努力をしてきたからこそなんだと。ある試合のとき、メリルが「私とチャーリーはもう16年一緒にやっているのよ」と言っていたのを覚えている。それを聞いた日、私は1日中感動していたわ。デトロイト・スケーティング・クラブの壁に、前歯のない口で笑っている(幼い時代の)メリルとチャーリーの写真がかかっていたことも、よく覚えているな…。
で、ニキータと私ね。ええ、2シーズンの間、私たちはいいプログラムに恵まれたし、素敵なリフトもやったわ。でも、それではチャンピオンにはなれないの。なにか明白に人目をひくなものでなければならない。でも、そのことを悟るまで数年かかった。経験を積み、ミスを重ねてから、ようやくわかったの。
Q:そんなにたくさんミスをした?
イリニフ:ええ、たっぷりと。それは私はかまわないの。他者の失敗を見れば学ぶべきことは十分学べると言う人もいるけど、結局そうではないのよ。つまり、練習後には必ずマフラーをしなくちゃならないことは、実際に風邪をひくまではわからない。食事やほかのことについても同じことが言えるわ。
ジャッジだって、自分の眼前で何年もかかって成長してきた選手と、ただぽっと出てきた選手とでは、評価も違うと思う。いくら才能がある選手でもね。
だから、客観的に見れば、私とニキータのパートナー関係は、今シーズン初めて本物になったのよ。去年の夏の練習のとき、2人の間には驚くべき調和ができていた。私たちは新しいリフトを練習し、すばらしい演技ができるようになった。言葉にしなくてもお互いのことを理解できた。強い絆で結ばれて、すべては2人で一緒にものにしてきた――そんな感覚だった。だからこそ、3月に起こったことはとてもつらかったわ。
(ああ、エレーナ(;_;)…後半に続きます…)
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