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浅田真央 ロイターインタビュー「苦しみぬいた3年間を経て、ソチへ」
ものすごーくご無沙汰してしまいました。じつは生まれて初めての海外観戦でTEBへ行っておりまして。で、ついでにパリ観光もみっちり楽しんできまして、帰ってきたらもうロステレの真っ最中。仕事も家事もたまりまくりで…なんていう言い訳はどうでもいいですね。もう来週はグランプリファイナル!
ここへ来て大輔さんが怪我で欠場(;_;)、そして補欠だった織田くんが繰り上がり…という、何だか大変なことになってしまった男子ですが、女子ではひさびさに浅田真央ちゃんの海外記事が入ってきました。中京大学でおこなわれたロイターの独占インタビューのようです。内容的にはあまり目新しいことはないのですが、ここ3年間を振り返っての彼女の今の心境が少しわかるインタビューだと思います。

元記事はこちら→Figure skating-After three hard years, Asada hopes to shine at Sochi  Thu Nov 28, 2013 By Elaine Lies
 


「苦しみぬいた3年間を経て、浅田はソチで輝きたい」

今から20年近く前、日本の浅田真央が初めてスケートリンクを踏んだとき、彼女はヘルメットをかぶり、膝と肘にプロテクターをつけて、ただ姉のあとをついて回りたい一心だった。

そんな彼女が、今はソチ五輪金メダルの有力候補だ。ソチでは、長年のライバルであり現五輪金メダリストである韓国のキム・ヨナと、ふたたび対決することになる。

しかし、つい1年前の2012年には、浅田はスケートをやめることを考えていたという。

その前年に母が亡くなったこと。その上、2010年バンクーバー五輪でキムに敗れ金メダルを逃して以降、スケーティング・スタイルを徹底的に変えようとする中で、不安定な数シーズンを送っていた。そのせいで、彼女はスランプにおちいった。

「もしあんなつらい経験をしなくてすむんだったら、したくはなかったです」日本の中央に位置する名古屋市にほど近い彼女のホームリンク。そこで行われたロイターとのインタビューで、23歳の浅田はおだやかな口調でそう言った。

「これまでの3年間、私は痛みや不安をたくさん経験してきました。でも、私が今いる場所まで来れたのは、その痛みのおかげだったんです」

「もしもあのつらい日々を経験していなかったら、私はここまで来れなかった、今現在の自分の状態にはなれなかったと思います」

今季が現役最後のシーズンになるかもしれないと語る浅田は、今年、出場したGPSの2大会、スケート・アメリカとNHK杯の両方で優勝を飾った。高難度のトリプルアクセルは完璧とは言えなかったにもかかわらずだ。

NHK杯では5つの三回転ジャンプを着氷し、パーソナルベストをたたきだした。得点を見た彼女は、うれしい驚きに一瞬口をあんぐり開けた。

「バンクーバーの後、私はすべてをやり直しました。基本から全部修正したんです。今はそれがやっと自分のものになった気がしています」そう語る浅田は、ひとつの試合で3つのトリプルアクセルを降りた記録をもつ、世界で唯一の女子選手だ。

「今の私の目標は、最後の最後までいい演技ができるだけの体力をつけること。そして、自分が納得できる内容でプログラムを滑れるようになることですね」

●基礎に立ち返る

浅田が学生として籍を置き、練習の拠点としている中京大学。そこでの午後の練習は、かえでの木々が秋色に色づいたキャンパスをジョギングすることから始まる。

身長163cmのきゃしゃな彼女は、1日4時間、週に6日、練習をおこなう。練習の最初にはきまって、氷の感触をつかむためゆっくりとリンクを一周する。

その日の練習では、同じくトップ選手である小塚崇彦とリンクを分け合っていた。浅田はこの日、すべてのジャンプをクリーンに着氷し、コーチの佐藤久美子から拍手からもらっていた。佐藤はリンクサイドに立って、ときおり身振り手振りをまじえて動きを教えていた。

「基礎をやり直していたときには、コーチが言っていることと自分の頭にあることを一致させることができなかったんです。コーチの言葉が理解できなかったし、理解できたときも、そのとおりにすることはできませんでした」と浅田は言う。

「すべては感覚や意識の問題だったんです。とにかく自分の身につくまで毎日練習すること、それしかなかったんです」

浅田がこの「やり直し」期間の最中だった2011年12月、知らせがとびこんできた。48歳だった母・匡子さんが肝臓の病のため危篤におちいったというのだ。

浅田はカナダでの試合を棄権し、飛行機に飛び乗ったが、彼女が日本に着く前に母は息をひきとった。

このことが一因となり、彼女はスランプにおちいった。そして、2つ年上でスケーターでもある姉の舞やコーチに対して、スケートをやめるかもしれないと打ち明けるまでになったという。

だが、振付師のもとを訪れていたとき、振付師がかけた明るい音楽に興味をそそられた。そして、エキシビションナンバーの振付をおこなっていく中で、少しずつまたスケートが楽しいと思えるようになっていった。

今季が現役最後になると決めたことも、自分の助けになったという。

「あと1年しかないとわかっているからこそ、競技に自分のすべてのエネルギーをつぎこむができるんです」

「(母の)存在は毎日感じています。だから、以前と同じように続けていけているんだと思います」

引退後の道を考える前に、まずはオリンピックを経なければならないが、もっとも考えられるのはアイスショーに出演することだろう。だが、まず最初は旅行をしたいそうだ。できれば「思いっきりのんびりできる」バリ島のような島に行きたいという。

間近に迫った、誕生日がわずか20日早いキムとの対戦については、浅田はあまり多くを語ろうとしない。キャリアの初期のころから彼女というライバルがいたことは、自分にとって原動力になったという。

「すごくしんどい時期も何度かありました。でも、もし彼女がいなければ、自分がここまで成長を遂げることはなかったと思います」

「バンクーバー五輪の私の目標は金メダルでした。子供のころからその夢にむかって努力してきたから、自分がミスをしたことは後から本当に悔しかったですね」

「ソチでは、すべてのことを完ぺきにやって、そんな記憶を消すことができたらといいなと思います。そのためにこの3年間、努力を続けてきたんです」



このインタビューの動画をあげてくださった方がいらっしゃいました。私が訳した言葉とだいぶ違うところもありますが(^_^;)どうかお許しくださいませ〜。真央ちゃん、きりっとしたいい表情ですね。

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kyu 真央ちゃんのインタビューはいつもそうなんですが、彼女のシンプルな言葉にすべての経験、感情、決意が込められていて、それ以上よけいなことを言うのは野暮なんですよね…。
でもひとつこれだけは! ローリー、ありがとう! もちろんタラソワさんも真央ちゃんにとって大きな力になったに違いないでしょうけど、やはり振付師、音楽、プログラム、つまりフィギュアスケートが彼女をどん底から救ったんだなあと、勝手に胸をあつくしてしまったワタシなのでした(;_;)

JUGEMテーマ:フィギュアスケート
カテゴリ:浅田真央 | 15:45 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
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