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ジェニファー・カークのブログより「果たせなかった夢」(前篇)
ジェニファー・カークというアメリカの元フィギュア選手がいます。2000年に世界ジュニアを制し、2004年の全米選手権ではあのミシェル・クワン、サーシャ・コーエンについで3位に輝きましたが、翌2005年に突然引退。数年後、引退の理由のひとつが摂食障害だったことをあきらかにしました。

そんな彼女が、この4月から「The Skating Lesson」というブログを開設して、フィギュアスケーターだったころの体験をつづっています。
まだわずかな記事しかありませんが、最新記事が5月29日付でアップされました。これがとても凄惨かつ率直な内容で…じつは私、彼女のことはよく知らなかったのですが、フィギュア選手というのがどれほど過酷なのか、涙なしには読めない記事でした。
とても長いので、前篇と後編にわけて訳してみました。まずは前篇からどうぞー。



from The Skating Lesson: sports teach us more than winning and losing
Posted on May 29, 2012 An Unrealized Dream


「果たせなかった夢」(前篇)

2005年8月16日。2006年の(トリノ)オリンピックのアメリカ代表チームが発表される151日前のこと、私は便器に頭をつっこんでいた。過食症の症状があらわれたのだ。またもや。

私の過食症はみっともないものだった。のどの奥に指をぐいっと差し込んで、便器にむかって「ゲーッ」と叫ぶ。吐しゃ物が顔にはねかかって、乱雑に結んだポニーテールからほつれた金髪をびしょぬれにした。それは私の暗黒の時間だった。ファンも、ジャッジも――誰一人として――知らない時間。吐き終わると、私はバスルームの床に倒れこんで泣いた。涙は断続的にやってきて、私の恥を洗い流し、オリンピックに選ばれないかもしれないという恐怖をやわらげてくれた。床の上で丸くなっていると、やがて自分のすべての感情――食べ物についてとか――が消えて、涙も乾いてゆく。その後、念入りにトイレを掃除するのが常だった。私のもっともプライベートな夜ごとの儀式の痕跡が、すべて消えてしまうまで。

けれども、その夜はちがっていた。

床から立ち上がると、もうすっかり日が沈んで、バスルームはほとんど真っ暗になっていた。私はバスルームの鏡の前のカウンターにすわると、鏡に映る自分の姿にゆっくりと目をこらした。あごのあたりが奇妙にむくみ、目は充血してはれぼったく、肌には皮脂が毛穴に入り込んでできたニキビがいっぱい。鼻から鼻汁がしたたっているのに気づいて、あわてて右手の甲でぬぐった。みじめな姿だった。まるで麻薬中毒者のよう、おびえた小さな女の子のようだった。それは助けを必要としている人間の姿だった。


オリンピックに出たいという子供のころの夢は、もうすぐ手の届くところにきていた。だが、私は毎晩、気がつくと鏡を見つめて、どうすれば自分を傷つけることをやめられるんだろうと考えていた。オリンピックの3枠をめぐって激しい戦いになるのは予想できたが――1位はおそらくミシェル・クワン、2位はサーシャ・コーエン――3番目の枠は空いていて、私は自分がそれを勝ち取れると信じていた。絶対に手に入れたかった。そのために猛練習を積んできた。ところが、自分の心と体のコントロールがまったくきかなくなっていた。どうしても過食をやめることができない。1日3食、きちんと食べ物をかみ、飲み込み、消化することができなかった。そして、最悪なことに、なぜそうなってしまったのか全然わからなかったのだ。

私の夢が私を壊したのか、それとも私が自分の夢を壊したのか――それは絶対に解けないなぞなぞだった。どちらであっても、こんな人生はありえなかった。どんなに否定してみようとしても、この病が自分にどんな結果をもたらしたのか認めざるをえなかった。歯は腐食し、髪の毛はぬけ、体中が栄養と休養とケアを求めていた。この自虐のサイクルから抜け出す唯一の方法は、すべての時間を費やしてこれを治そうとすることだと、私は悟った。そして不幸にも、この病の回復は、つまりスケートをやめること、オリンピックと夢をあきらめることを意味するのだと。

私はポニーテールをほどいて、鏡から顔をそむけた。敗北の苦い味が口を満たし、のどにつまった。スケートをやめたら、私はどうなるのだろう? 夢を失ってどうすればいいの? 私に何が起こるの? たくさんの疑問が頭の中を飛びかった。この摂食障害とフィギュアスケートの外にある世界で、いったい何が待ち受けているのか、私にはさっぱりわからなかった。摂食障害は地獄ではあったけど、奇妙な安らぎを与えてくれるものになっていたし、スケートは私のすべてだった。この11年間毎日、オリンピックの開会式で行進し、自分の国を代表して演技して、ひとにぎりの人しか経験できない世界の一員になることを夢見てきた。私の夢は私が生きる理由になっていた。でも、これ以上ひと晩たりともバスルームの床ですごすことはできなかった。もう自分を傷つけ続けることはできなかった。私の胸に恐怖が重くのしかかってきた。今こそ、この惨状から抜け出して助けを呼ぶべきだと、わかったのだ。

この夜以降、私は二度とリンクに戻らなかった。そして数週間後、現役を引退した。それは私の人生でもっとも悲痛な決断だったけど、最上の決断でもあった。こんな決断を、こんなにも急に、ドラマチックに下すことになろうとは夢にも思っていなかった。そもそも何がきっかけで摂食障害になったのか、私にはさっぱりわからない。私は以前からとても細身で、やせろとは誰からも言われたことがなかった。最初はゲームのような感覚だった。ある期間内にどれくらい体重を落とせるかとか、どこまでやせられるのかとか。でも、本気でやっていたわけではなかった。スケート仲間には体重の問題で苦しんでいる人が多く、自分はああはならないぞと誓っていた。ただ食事に気をつけて、毎週ジムでちょっと追加のトレーニングをしているだけ。別にたいしたことでもないし、アスリートとして強くたくましくなれるだけだと思っていた。ちゃんと自己管理できていると思っていたし、実際に摂食障害の初期のころにはそれができていた。時には日数をごまかしたり、カロリー計算をしないこともあったし、主導権をにぎっていたのは自分だったのだから。けれども、食事に注意をはらい、トレーニングを増やし始めておよそ1年たったころ、事態は変わった。私はコーチを変更し、ロサンゼルスに引っ越した。そこから人生が、いわばカオスになった。
カリフォルニアに引っ越したころ、私はキャリアで最高のシーズンを終えたところだった。全米で3位となり、世界選手権に出場して、春にはチャンピオンズ・オン・アイスのツアーに参加した。2006年オリンピックまであと1年半、私は代表チームの有力候補だった。ところが、西海岸への移住には自立と大きな責任がともなうことになった。それまでの2年間、ミシガン州に住んでいたときには、姉(妹?)が同居してくれ、私のアシスタントの仕事をしてくれていたのだが、その姉がロサンゼルスには来ないことになったのだ。私は自分で生活を調整しなくてはならなくなった。そのためにどんなことが必要になるのかはわからなかったが、そんなに難しいことではないだろうと思っていた。それに、ちょっぴり自由を満喫したかったのだ。


新生活は最初は楽しかったけれど、まもなくある秘密をかかえることになった。ロサンゼルスに引っ越してすぐ、父親がこの地域に住む女性と関係をもっていることを知ったのだ。その後1年間、父は関係を隠すため、ロサンゼルスにひんぱんに行くのは私に会うためだと家族に嘘をつき続けた。私は事実に気づいたが、ほかの家族には内緒にするよう言われた。新生活は突然、私の手に負えないものになった。初めて手にしたお金、自由、自分で調整しなくてはならないキャリア、支払うべき生活費、そして家族の秘密と、オリンピック代表入りの夢。当時私はまだ19歳、いろいろな責任をかかえすぎて溺れそうな感覚にとらわれることもあった。父ともコーチたちとも、自分が感じているストレスをオープンに話せるような関係ではなかった。私は自分ひとりでかかえこんだ。唯一、なぐさめを与えてくれ、ストレスからの逃げ道を作ってくれたのが、ものを食べるかどうかだけに神経を集中させることだった。食べ物のことを考えていると、気持ちがまぎれて、落ち着くことできた。カオスの生活がシンプルになって、自己管理しているつもりになれた。なんといっても、何も感じないですんだのだ。

私はただ無感覚でいたかった。外界からはしっかりしているように見えていたらしい。今までの私となんら変わらず、きちんと自己管理をして、いつでも戦えるように見えていたと思う。でも、内面は真っ暗だった。吹き荒れる感情の嵐にとらわれていた。摂食障害にくわえて、私は毎晩お酒を飲むようになっていた。それでも逃げ道がなくなると、とがったもので左腕を傷つけるようになった。当時はリストカットをしている人など他に誰も知らなかったし、とても恥ずかしく恐ろしい行為だと感じていた。お酒を飲んだときは、すべてがちょっとぼんやりして、自分が人生にうまく対処できるりっぱな大人だと錯覚することできる。一方、リストカットをすると、冷たい水を顔にあびたような気分になり、感情をぱっと解放することができた。肌の表面を、血がわずかにこぼれる程度に傷つける――それによって、さまざまな気持ちを、実際にそれを経験することなく解き放つことができた。私はアスリートだから、肉体的な痛みは常に経験していたし、対処することもできていた。だが、さまざまな感情というのは、私にとって未知のもので、ひどくおそろしかった。そんなとき、ひりひり痛む腕の傷が心を落ち着かせ、摂食障害と同じく奇妙な安らぎを与えてくれたのだ。不幸なことに、私の腕の切り傷やバンドエードについて聞いてくる人は誰もいなかった。それで、私はますますリストカットを繰り返すようになった。それはたちの悪い、永遠に終わらないサイクルだった。

私が自分の体に対してやっていることは苦痛に満ちていたけれど、最悪だったのは、自分が二重生活を送っているような気がしていたことだ。フィギュアスケーターは好感度のかたまりであるように指導される。ジャッジや記者がどこにひそんでいるかわからないから、常に笑顔でいるよう言われるのだ。だが実際には、こうした期待にこたえようとするあまり、多くのスケーターが自己分裂するようになる。まず「スケーターとしての自分」(父とコーチは私のそれを「テレビ用のジェニー」と呼んでいた)があり、やがてもうひとりの自分が顔を出すようになる。多くの場合、感情を押し殺し、常に元気で明るく見せなくてはならないことに対して出てくるものだ。さまざまな感情をのみこんで、しっかりした自分に見せようとすれば、振り子は必ず逆側に振れる。私の行動――過食症とリストカット、飲酒――は、押し殺した感情を解き放ってくれるものであり、私が知っているたったひとつの対処法だった。自分の公の顔と実際の行動とのあまりの落差に、私は恥ずかしい気持ちでいっぱいだった。みんなに嘘をついているような気がしていた。自分は詐欺師なんだと思っていた。 (後編につづく)

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カテゴリ:北米女子 | 12:38 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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